(08/07/09)
人間の自己疎外
=投信評論家・寺田幸弘氏=
2007年2月、筆者は「崩れる信頼―資本市場と労働市場」と題して、私見を述べさせていただいた。言わんとしたことは、資本市場の悪化と労働者の窮乏化であった。もちろん、前者についての危機感に重点を置いたつもりであったが、当時ちらほら散見され始めたサブプライムローン市場の、その後の本格的な崩落で、今や資本・金融市場は世界規模で混乱の真っただ中にある。原油と食料の市場価格の暴騰という副作用も伴ってである。
本稿は後者、すなわち労働者の窮乏に焦点を当てたいと思う。1カ月前の6月8日、秋葉原連続殺傷事件が起きた。報道された直後は正直、日常茶飯事化したいまわしき刑事事件の一つかと思った。見聞きするものは、そうした扱いをしていたと思う。一方で情報不足に若干のいら立ちは覚えていた。
事件直後、神田明神下で、かつての同僚数人と会食の約束が入っていた。事件の現場からは道一つ隔てただけであるが、この街ははっきりとその趣を異にしていたこともあり、特段問題視する気持ちにはならなかった。しかし、引き続いて、断片的ながら報ぜられる犯行者の全体像を作り上げるに及んで、筆者は本稿の表題を急速に意識せざるを得なくなった。
日本の資本主義は戦前の初期段階では軽工業において、あるいは一次産業で過酷な労働条件が存在した。しかし、戦後においては終身雇用、年功序列、そして企業別労働組合で労働者は守られていた。ところが、元号が平成になる前後から、グローバルレベルで資本主義の本領が現れてくると同時に、この3つの日本の特徴的労働慣行は崩れて行った。そして19世紀の中葉の予見が現実のものとなりつつあるのである。
人間の自己疎外とは、社会学辞典(有斐閣 昭33年初版709ページ)は次のように解説する。「賃労働者の状態」について、「生産手段が資本家の所有となっている資本主義社会の労働は、労働者の上に君臨する対象的富の世界を強大にするが、労働者自身は反比例的にますます無内容となり、人間性を喪失してゆく。彼の自発的機能としては、飲み、食い、生殖などの動物的なものしか残らない」。秋葉原の犯行者は、まさにこの状況にあるのではないか。
総務省の7月3日発表の就業構造基本調査は、非正規就業者の全雇用者に占める比率は35.5%としている。男性は20%、女性は55.3%である。非正規とは、パートタイマー、アルバイト、派遣、契約、嘱託、その他となっている。そして非正規の比率は上昇を続けている。秋葉原事件は自己顕示や目立ちたがり屋の蛮行という単純な現象ではない。労働の喜びがなくなっている層が、確実に形成されてしまっているのである。
少子化は労働者の自己再生産(この言葉は嫌いだが)が行われなくなっていることの表れではないのか。現代日本の危機をこの事件は直截(ちょくせつ)に物語っているのではないか。秋葉原の由来は鎮火原であり、そこに祭られた鎮火神社が秋葉神社と改められたことにあるという。秋葉原が鎮火でなく、発火の原点となったようだ。
7月に入って報道の見出しに次のようなものが現れた。「日雇い派遣、原則禁止」、「派遣労働、規制に転換」「違法派遣受け入れた企業、直接雇用を行政勧告」「偽装請負派遣先に直接雇用勧告」。1999年の派遣の原則自由化、2004年の製造業も解禁、これをもって労働の窮乏の準備は整ってしまっていた。幸いにも、政党と行政の反応はかなり早く現れた。その現象を「剣はペンよりも強し」とした記述を見た。あまりにも鋭い諧謔(かいぎゃく)であるが故に、文字で書くことすら憚(はばか)られる。
最後に話は先月にさかのぼるが、筆者はアデランスを巡り、「スティールの次の一手に期待」と書いた。役員の新規選任において期待された方向に動いているようではある。企業統治の力が、より早く働くようになるという識者のコメントも伝えられている。だがアデランスの非上場化をスティールは求めているようである。企業の立ち直りを実現して株主に報いるのがスティールの主張ではないのか。非上場化しては、他の株主にマイナスの作用が働く。スティールの考えには同意出来ぬことを明瞭にしておきたい。(以上は筆者の個人的な見解です)(了)
※本画面に掲載されている情報の著作権は、(株)時事通信社に帰属しており、無断で使用(転用・複製等)することを禁じます。提供している情報の内容に関しては万全を期しておりますが、その内容を保証するものではありません。また、これらの情報に基づいて被ったいかなる損害についても、当社は一切の責任を負いません。なお、このサイトについてのお問い合わせは、
こちら
まで。
Copyright(c) 2008 JIJI PRESS All Rights Reserved.